光ヶ丘団地
敗戦当時、日本は戦火による消失を含めて全体で約420万戸の住宅が不足していた。住宅難は特に地方から転入者が激増した大都市圏で深刻だった。税収の少なかった政府は、住宅建設に郵便貯金などを原資とする財政投融資資金を活用することにした。特殊法人日本住宅公団は大都市圏のサラリーマンなど中堅所得者向けに、良質の分譲・賃貸住宅を供給するため、昭和30年に発足した。
南柏駅の乗客を増やすため、現在の流山市名都借の土地に団地をつくる予定であったが、坪2000円と地価が高く折り合わなかった。その後、名都借で不動産業をしていた稲生憲次氏(平成2年、91歳で逝去)が南柏駅の熊谷駅長をたずね、「用地は私にまかせて下さい。駅長のためだから周旋料はいらない」と申しでた。その土地は現在の光ケ丘で、地主は小金町の人が多かった。土地は鈴木悦三柏町長から日本住宅公団に紹介され、地代坪1200円で商談がまとまった。
国土地理院から1949年の光ヶ丘団地の航空写真
敷地面積は10万平方メートル余、その土地に108棟、908戸が建設された。入居は翌32年3月16日に始まり、3月末に終わった。公団住宅以前のこの土地はごらんのとおり松や雑木の森や畑であった。
国土地理院から1961年の光ヶ丘団地の航空写真
当時は日本中が住宅難であったこと、宣伝が広く行われたことで入居希望者が殺到した。当初は月収2万5000円以上の中堅所得者が対象であった。住宅面積は平均12平方メートル、家賃4600円。食寝分離、洋式トイレ、ステンレスの流し台が人気を呼んだ。倍率は十四倍の競争であった。抽選会は上野駅に近い下谷公会堂で昭和32年2月25日に行われた。
東京から移りすんだ人には道路が未舗装のため土ほこりや雨でぬかるなど、当初から不満があった。多くの入居者は東京勤務のため、バスに乗り、南柏駅で乗り換えるなど不便を感じていた。そのため、入居初期には転出・転入者が多かった。
国土地理院から2008年の光ヶ丘団地の航空写真
老朽化に伴い、1995年より順次建て替えが進み、同団地は「グリーンタウン光ヶ丘」に生まれ変わった。
・随分と変わっちゃいましたよ。団地が綺麗になっちゃって。人間が少なくなってしまいましたね。だから商店が次々に無くなってしまいました。30年前の活気はどこにいってしまったのか。
光が丘から中原・増尾にかけての雑木林も大型店舗や学校になってしまいました。あれだけ甲虫類の宝庫だったのに・・・。
・当方、昔のハモニカ長屋(そう呼ばれていたとは知らなかった)に住んでいました。2階建てだし庭付きだし、その庭が繋がっているようなものなのでご近所さんとの交流もあり、本当にいいところでした。光ヶ丘マーケットで働いていたおじさん、おばさんたち、今も元気かな・・・。あんな空間、日本にまだあるんでしょうかね。
・当時は爆発的に人口が増えているときで、光ヶ丘団地の小学校学区は光が丘小学校で、あまりに生徒数が増えるので酒井根小学校と第八小学校ができて、生徒が三つに分散した経緯があります。