明治時代の柏
小金牧の開墾について
1869年(明治2年)、それまで北総地域に広がっていた幕府の直轄地だった小金牧や佐倉牧は廃止され、明治政府の開墾事業の対象地となりました。新政府は、東京と名称をかえた「江戸」の町々にあふれていた生活苦におちいっている士族や庶民たちの救済にもなると考え、この開墾事業に期待をかけたといわれています。政府は、1869年に入植者の募集を開始し人々には、次のような条件が示されました。
・3年間の衣食住は、開墾会社が保障する。
・4年目からは、自活すること。
・開墾入費は貸与し、10年間で返済すること。
開墾のようす
徐々に開墾された小金牧・佐倉牧の地域には、それぞれ初富・ニ和・三咲・豊四季・五番・六実・モ栄・八街・九美上・十倉・十余一・十余二・十余三と名づけられました。
豊四季には1869年(明治2年)、十余二には1871年(明治4年)にそれぞれ開拓者が移住して、開墾が始まりました(明治5年にそれぞれ村として成立しました)。開墾作業は、大変苦しいものでした。そのことは、当初(明治2年)豊四季へ3回にわたって移住してきた135戸(526人)が、明治5年までの2年余りの間に103戸に減ってしまったことからも伺える。
明治5年5月には窮民を独立農夫にすることをひきかえに開発会社の開墾事業に終止符がうたれた。