広大な小金牧
江戸時代の村
江戸時代のはじめ頃、柏には30余りの村があったと記録されています。村では検地が行われ、大勢の名請人(なうけにん)と呼ばれる所有者名が記録に残されています。これらは屋号として今でも残っている地域があります。柏の村でも、農民が連帯して年貢の責任を負う五人組がつくられました。また、村をまとめるために、名主、組頭、百姓代の村方三役が責任者となりました。領主の本多氏は、村役人に明細書を書かせ、収穫高や人ロ、馬の数、作物の種類等村の様子を細かく報告させたので、今でもその様子を知ることができます。
(2)小金牧の姿
江戸時代、現在の柏市の約5分の1は農地にくらべ粗放的士地利用の小金牧であった。小金牧とは徳川幕府直接管理の野馬の放牧場のことである。良馬は幕府の軍馬に、普通以下の馬は農馬・駄馬として農民に売却された。豊四季は小金牧の一つである上野牧で、ほか、柏には十余二に高田台牧があった。牧は明治になって廃止された。
千葉県北部から茨城県南の一部にかけての地域は、千葉県南部の上総・安房に対し下総国といわれた。県北部に広がる台地は下総台地と呼ばれ、大きく分けて印旛沼から西は小金牧、東は佐倉牧と呼ばれた。両牧はあわせて下総牧ともいわれた。柏駅や南柏駅付近も標高20メートルほどの台地であり、両駅は135年前まで野馬がかけめぐる上野牧の一部であった。手賀沼周辺や大津川、大堀川沿いの低地では、水田耕作が行われましたが、台地やその周辺の林には、野生の馬が千頭以上はいたといわれています。幕府は、馬があまり来ない平地を耕し、新田になるように進めました。これらが、塚崎新田や今谷新田(中新宿村)といわれるところです。
小金牧では、年1回幕府に馬を差し出すために「野馬捕り」が行われました。牧に放されている馬は「捕込」(とっこめ)という土手で作った囲い(柏市では今の柏第二小学校付近にあったといわれる)に追い込んで捕まえられたそうです。このような時には、付近の農民が人足としてかリ出されました。そのほか、農民は馬が田畑に入ってこないように野鳥土手(のまどて)を作ったり、牧場の手入れをしたり、当時の農民には大きな負担になりました。
小金牧の起源は平安時代中期(900年頃)に編纂された「延喜式」までさかのぼると小金牧の起源いわれるが、当時の痕跡はどこにも残っていない。「延喜式」記載の牧は坂東十四牧のうち、九牧が房総にあったとされる。そのうち下総が最も多く、高津牧、大結牧、小嶋牧、長洲牧、浮嶋牛牧の五牧が存在したが、現在のどこにあたるかは定かではない。官が下総の地を牧として指定するにはこの地に馬飼育の伝統と技術がすでにあったと考えられる。