江戸幕府と柏(江戸時代)
1.領民に慕われた本多氏
柏一帯を領有した本多氏
江戸時代になると親藩(しんばん)、譜代(ふだい)、外様(とざま)の大名が各地に配置されました。将軍は、江戸に近い地域に譜代大名や旗本を配したり幕府の直轄領としたりして守りを固めました。江戸に近い東葛飾地方を治めたのが徳川家の重臣である本多正重でした。徳川家康の時代から重要な働きをした一人に本多正信という重臣がいましたが、本多正信はその弟です。正信は、駿河国(静岡県)の藤枝の田中藩の藩主でしたが、江戸時代の初めに柏周辺の14の村の領主になりました。本多氏は代々農民を大切にし、過酷な税を取らなかったため農民に慕われていました。
藤心には、本多氏が配置した代官所の跡が残っています。また、かつて柏市北部にあった田中村の村名は、本多氏が治めていた田中藩(駿河国)からとったものだといわれています。
大名の配置
このほか柏の近くには、小金域(松戸市)に徳川信吉(家康の五男)が、山崎城(野田市)に青くからの徳川氏重臣の岡部長盛が、関宿城(野田市)に家康の弟松平康元がそれぞれ領主として入城しました。しかし、小金城と山崎城は、その後幕府直轄地(天領)となり取り壊されました。このほか、東葛飾地方は旗本や御家人の領地となっており、さまざまな領主がいたことから「碁石まじリ」と呼ばれました。
黄門様の通り道「水戸街道」
JR南柏駅の東側の迫りをまっすぐ北上し、柏神社の前に通じる通りが江戸時代に人々が往来した水戸街道。
江戸時代には、江戸と水戸徳川家の居城があった水戸とを結ぶ重要な街道の一つ。日本橋から千住までは五街道の一つである日光道中と重なり、千住(東京都足立区)から東に分かれて新楕(同葛飾区)、江戸川を渡り松戸、小金を通って市域に入り、我孫子に出ます。我孫子からは青山で利根川を渡って取手に至り、牛久・土浦を通り、そして水戸に達するルートだった。松戸までは五街道と同様に幕府の道中奉行管轄でしたが、水戸道というように水戸藩の強い影響下におかれた街道でした。
江戸・水戸間は三十里一九(現:119km)、二泊三日ほどの行程だったそうです。
街道といいますと日光の杉並木が有名なように、道の両側に杉や松の並木がありました。現在、市域の水戸道ではその面影が見あたりません。しかし、「小金原 勝景絵図」によりますと、小金牧を通る水戸道に沿って松が植えられています。これは徳川光圀が幕府の牧である小金原の中を水戸道が通ることから、松数1000本を植えさせたことによるとのことです。広大な原野の中の松並木は、道しるべの役割をも果たしていたことでしょう。松が立枯れると伐採し、そのあとに苗木を植えるなどの管理を行っていました。
大正9年(1920)に道路法が施行されると国道6号となり、現在に至っています。
南柏周辺の旧水戸街道沿いには、まだ昔の松並木の面影がところどころに残っています。
このほか、日光街道の脇道として、南柏から関宿に抜け日光道中と合流する日光東往還も整備されました。
柏は、小金宿と我孫子宿の中間にあり宿場はありませんでしたが、大名行列の手伝いに農民たちが度々借り出されました。水戸藩の江戸家老が帰国する時、総勢2000人が5日間に渡って迫っている記録が残されています。そのため、「助郷」として近隣の農民と牛馬が運搬用にかリ出されたそうです。